SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

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2021/05/13(木) イベント

十日間の祈り【八日目】くじけそうな時

「イスラエルの中に信仰と力がなぜもっとないのだろうかと、わたしは天使にたずねました。『あなたがたは、主の手をあまりに早く離しすぎる。あなたの願いをみ座に訴え、強い信仰を持って訴え続けなさい。約束は確実である。あなたがたが願い求めるころは、受けたと信じなさいそうすればそのとおりになる』と天使は答えました」(『初代文集』一五二ページ)。


 教会の歴史を丹念に調べると、過去に起こったリバイバルの数々を見ることができる。それは読者の心を熱くし、同時に動揺させる。「凄い証だ!ところで、私たちはいつこんな経験ができるのか。私たちの祈りは正しいのか」真剣だからこそ、不安が生まれることもある。


 預言された終末のリバイバルは、歴史上で最も偉大なものとなるだろう。私たちはそれを知っている。ペンテコストを含んだ過去のリバイバルも比べることはできない。

 しかし、それはいつなのか。いつになれば神は祈りに応えてリバイバルを起こして下さるのか。神の標準を保ち続ける人にとって、これは必然の問いであるように思う。


近道はない

 近道。リバイバルを求める祈りにそんなものは存在しない。もしあるとすれば、近道がないと知ることくらいか。むしろ、キリストはパンを求める譬を用いて、後の雨を求める祈りに、明らかな奮闘と苦闘があると教えている。男は叩き続けなければいけなかった。


 ヤコブの苦難もそうだ。彼は祝福を受けようとして、主の使いと夜通し格闘し、必死に求めた。天使が「もう去らせてくれ」と言い放った時、ヤコブが失望して諦めたとしても何の不思議もなかった。しかし彼は、ますます求めて「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」とにじり寄ったのだ。何というしつこさ!何という確信!かつて、このように求めたことが自分にあっただろうかと問う。

『やもめと裁判官』の譬は次のように始まる。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(ルカ一八・一)。これは、 祈りにおいて気を落とすことがあることの裏返しだ。事実、やもめの願いは正当であったのに、すぐには聞き入れられなかった。それでも彼女は求め続け、それがあまりにも激しかったので、裁判官に嫌われたほどだった。


 私たちは、これ以上求めると神に嫌われてしまうのではと恐れるほどに、その実現を求めたことがあるのだろうか。リバイバルは正当な求めであり、与えられまで求めることは間違っていない。

 

信仰のロマン

 祈りが実現しないと、人はないはずの近道を作る誘惑に駆られる。それは、妥協という近道である。色々な解釈を織り交ぜて、あたかも何かが起こったかのように結論づける。初めに求めたものではないが、何かが起こったのは嘘ではない。「パンは与えられなかったが、小麦粉が買えた」そう考えて求めるのをやめてしまう。

 しかし、リバイバルという求めに妥協はあるべきではない。どんな理由があっても、神のビジョンを引き下げるのは良くない。私たちは、受けたと分かるまで続けるべきだ。暗闇を手探りで進み、何かに触れては見失うような、時に虚しい試みに感じられるかもしれない。しかし、そこにこそ、信仰のロマンがある。近道はない。祈りの内に、その栄光を探し求めよう。


「多くのむだな祈りがくり返され、多くの人が祈りにおいて勝を得ないままでいるのは、祝福を願っても、その願いを保ち続けないからである。魂に対する愛にあふれた純粋な願いが起こされた、それは聖霊に働きであるから、忍耐して祈り続けなければならない。注意をそらすと御霊をけしてしまう」『リバイバルの鍵』九二ページ


根拠に基づく

 はっきり言える。私たちには、祈りを続ける根拠があるのだと。リバイバルを求める祈りは、み言葉に基づいている。厳密に言うと、預言のタイムラインと個々のみ約束に基づいている。言い換えれば、私たちはそれを求めるように、神に求められているのだ。


「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒二・三九)。

 聖霊は「約束の御霊」と呼ばれている。だから、私たちはキリストのみ名により、約束を大胆に申し立てる。リバイバルを求める祈りは、緊急性を帯びているが、焦りはない。焦りは不信であり、祈りを歪める。私たちが根拠とし、申し立てるみ約束は確実なのだ。


「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ一八・七)。