SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

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2021/05/14(金) イベント

十日間の祈り【九日目】後の雨を求める

「心の中から罪も汚れを取り除き、そこに聖霊が内住するためには洗い清めなければなりません。弟子たちは罪を告白し、罪から離れ、そして熱心に祈り、神に献身してペンテコステの日の聖霊の降下に備えました。今、私たちは弟子たちと同じように、しかも、彼らよりさらに真剣に聖霊の降下に備えなければなりません」(『牧師への証五〇七ページ』)。


 私たちは、ペンテコステの弟子たちと「同じように」祈るよう求められている。それはなぜか。

 それは、現代のリバイバルが「同じように」やってくるからに他ならない。初代教会と同じような経験が、同じように約束されているので、祈りの熱心さも相応のものが求められる。単純な話だ。

 エルサレルムで約束の聖霊が降った後、そこで何が起こったか――。轟音が鳴り響き、炎のような何がか降った。あまりの物音に、少なくとも数百人が家から飛び出している。弟子たちは突然外国語で語りだし、何より、その言葉には恐ろしいまでの力が伴っていた。ペテロは別人のようで、酔っ払っているようにも見えた。そこかしこに悔い改めが生じ、ある人は叫んでいた。まさに、圧倒的な光景。その日、ユダヤ教ナザレ派は、力ある教会とされた。


 このすべての現象は象徴ではない。聖書の記述は、象徴的な文脈――例えば、黙示録十二章――でない限り、文字通り解釈される。つまり、「先の雨」と呼ばれるあの聖霊の降下によって、誰の目にも明らかな現象が起こったのだ。そしてこのすべてと「同じように」、現代のリバイバルである「後の雨」は現れる。いやむしろ、後の雨は先のそれを凌ぐであろうと預言者は断言している。ハレルヤ!


現実に起きること

 現在の教会は、後の天による聖霊降下をぼんやりと解釈することに慣れてしまった。ペンテコストの出来事を一度切りの出来事として捉え、その価値と必要を見誤った。聖書は確かに、「主はあなたたちを救うために/秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる」と約束している。


「秋の雨」とは、先の雨とも呼ばれ、種を発芽させる恵の雨で、初代教会の爆発的成長を可能にしたペンテコステの聖霊降下を指す。「春の雨」は、後の雨であり、収穫を豊かにする聖霊降下。つまり、終末のリバイバルを指す。

 実際に、どのような外見的しるしが伴うのかは、神の主権による。轟音が伴うとはかぎらないが、それも十分に有り得る。しかしそれは重要な点ではない。ことの本質は、ひとたび聖霊降下が起きると、キリストの栄光が誰の目にも明らかになるということだ。聖霊の圧倒的臨在に迫られるという出来事が、教会の祈りを中心に降り注がれる。


弟子たちはいつ聖霊を受けたのか

 キリストは「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われた(使徒一・四、五)。そして弟子たちはしばらく後に聖霊を受けた。

 だが少し待って欲しい。これ以前の弟子たちは聖霊を受けていなかったのか。キリストとの三年間、彼らは聖霊なしに働いていたのか。


 キリストにも同じことが言える。キリストはバプテスマとほぼ同時に聖霊を受けられた。では、以前のキリストは聖霊と関わりがなかったのか。もちろん、そんなはずはない。誰も聖霊の感化なしに、神に導かれることも、交わりを持つこともできない。キリストも、弟子たちも、私たちも、聖霊の働きを受けている。そこに疑いはない。

 では、キリストが受けるまで待てと言われた聖霊は何なのか。それは同じ聖霊なのだが、宣教のための圧倒的な力を伴うという点で異なっていた。弟子たちは、ペンテコステ以前にも宣教に遣わされ、一定の成果を得ていた。しかし、「約束の聖霊」を受けてからは、目に見えて違っていた。それは全く圧倒的だった。


力ではなく栄光

 後の雨こそ、教会に必要な力なのだが、ここに誘惑がある。私たちは力を求めるべきではない。証の力は魅力的だが、力とリバイバルを混同する時、教会は、サタンに利己心を明け渡すことになりかねない。

 私たちの動機は、キリストの栄光のみである。「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う」(エゼキエル三六・二二)。


 後の雨の教理は、完全に霊の事柄なので、これおを理解するのは難しい(一コリント二・一四)。それでも、これを妥協なく求めたい。主は必ず、求める者たちにご自身の栄光を表して下さるのだから。